高橋
今のお話をうかがって中学受験の国語にも通じると大いに共感しました。
文章を読み取るには、まずはきちんと日本語を読めるということが大前提ですが、内容を深く理解しようと思うと、体験なり、前提となる知識がどうしても必要になります。
中学受験の入試問題を見てみると出題される文章の中には大人向けに書かれたものもあり、そこにはこのぐらいの本を読めるレベルの生徒に入学して欲しいという学校側のメッセージがあると考えられます。
普段から様々なことに興味関心を向けたり心でも色々感じていないと、字面だけ追っていても何が書いてあるか分からないのです。
文章を読み取るには、まずはきちんと日本語を読めるということが大前提ですが、内容を深く理解しようと思うと、体験なり、前提となる知識がどうしても必要になります。
中学受験の入試問題を見てみると出題される文章の中には大人向けに書かれたものもあり、そこにはこのぐらいの本を読めるレベルの生徒に入学して欲しいという学校側のメッセージがあると考えられます。
普段から様々なことに興味関心を向けたり心でも色々感じていないと、字面だけ追っていても何が書いてあるか分からないのです。
中尾
私たち塾で教える側も含めて、周りの大人がどんな関心や感性を持っているかも大切ですね。
高橋
ある難関校の入試で、子育ての中で悩んでいる母親の内心を描いた文章が扱われたことがありました。今まさに育てられつつある小学生に対して母親の気持ちを問う出題をするのかと、私自身驚きました。学校としては生徒たちの想像力、つまり自分と異なる他者の立場に立って考える力まで問うているのだと思います。こういう想像力も言葉の力の一つですよね。
中尾
英語を学ぶ上でも想像力を発揮できるかどうかは大事なポイントです。
例えば、和文英訳にしろ英文和訳にしろ、英文や日本語の字面を追うだけでは上手く訳せないことが多々あります。そこで想像力を働かせて、「この表現にはどのような意味が含まれているのか」ということを意識して読み取る必要があります。
英作文の例だと「昔の日本人は気長に待つことができた」という文章に続いて「今の日本人は待つのが下手になってしまった」とある場合、高校生に英作文してもらうと、「下手になってしまった」の部分をbad at waitingとか、not good at waitingと訳したりします。
しかしそれだと「(技術的に)待ち方が下手」になってしまう。全体の文脈を理解して、「気長に待つことができない」と解釈をして、さらに「気長に=辛抱強く、我慢強く」と、日本語の言い換えをしてJapanese people today can no longer wait patiently.などとする必要があります。
ところが、一方で試験問題の採点では、英文和訳問題などで内容が理解できていなくても、逐語訳的なもので部分点が与えられることがあります。
例えば、和文英訳にしろ英文和訳にしろ、英文や日本語の字面を追うだけでは上手く訳せないことが多々あります。そこで想像力を働かせて、「この表現にはどのような意味が含まれているのか」ということを意識して読み取る必要があります。
英作文の例だと「昔の日本人は気長に待つことができた」という文章に続いて「今の日本人は待つのが下手になってしまった」とある場合、高校生に英作文してもらうと、「下手になってしまった」の部分をbad at waitingとか、not good at waitingと訳したりします。
しかしそれだと「(技術的に)待ち方が下手」になってしまう。全体の文脈を理解して、「気長に待つことができない」と解釈をして、さらに「気長に=辛抱強く、我慢強く」と、日本語の言い換えをしてJapanese people today can no longer wait patiently.などとする必要があります。
ところが、一方で試験問題の採点では、英文和訳問題などで内容が理解できていなくても、逐語訳的なもので部分点が与えられることがあります。
高橋
分かります。完全な間違いではないのでバツにはできないが、この生徒は文意を理解できていないのではないか…と感じるような答案ですよね。
中尾
「それはどういうこと?」と答えた当人に尋ねてみると、怪訝な表情が返ってきたりします。
英文を読むということが、単に日本語に置き換えるということではなく、筆者の考えたことを感じ取って楽しむことであったり、新しいことを学べたりすることであると感じてもらえるようにすることも私たちの大事な務めだと思います。
英文を読むということが、単に日本語に置き換えるということではなく、筆者の考えたことを感じ取って楽しむことであったり、新しいことを学べたりすることであると感じてもらえるようにすることも私たちの大事な務めだと思います。
高橋
そこがまさに授業の醍醐味、必要性なのだと思います。教室の中で講師と生徒との対話から得られる学びから理解を深めることこそ、私たちが教場で目指していることであり、その点は大学受験グノーブルも中学受験グノーブルも共通しているように思えます。
問題を解いて、合っているか間違っているかだけを確認しても全く理解が深まらない部分があります。そこを生徒と講師がいっしょになって深いところまで掘り下げていく。何となく分かったような気になっていたとしても、実はさらにその奥があることに気が付く。それがきっかけとなり、さらに興味の枝葉が広がっていく。その契機が授業なのだと思います。
問題を解いて、合っているか間違っているかだけを確認しても全く理解が深まらない部分があります。そこを生徒と講師がいっしょになって深いところまで掘り下げていく。何となく分かったような気になっていたとしても、実はさらにその奥があることに気が付く。それがきっかけとなり、さらに興味の枝葉が広がっていく。その契機が授業なのだと思います。
中尾
小学生の間からそうした経験を数多く積むことは、その後の学習の姿勢を形作る上でとても大切なことですね。